◎これも(現在)おかげであったという前提として、あれも(過去のお粗末御無礼)もおかげであったということを言えれるのは、詫びる、改まる、その印としてこういう修行に取り組むということがなされてこそ。そのことを抜きにしては、ルーズな神ながら主義になる。
%1久富先生の改まりの印としての修行。
%2「すみません」が、口だけのことだから、いつも取り違えている。本当のことと分かっていても出来ないことになる。
昭和四十三年二月二十三日 朝の御理解
X御理解第五十三節「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」
%V本当の信者を目指さしてもらう。そこに本当のおかげが、受けられるようになると思うのですが、今日は、そこんところの、あれもおかげであったというところ。過去の事、一切がおかげであったということなんですけれども。例えば、私共は、いつも失敗ばかりしているのですけれども。言うなら、お粗末、御無礼、不行届き、又は不熱心、そういうような、例えば、事柄もおかげであることになるのですけれども。あれもやっぱり、「おかげであった」と言うたのでは、私はおかげではないと。
%V自分の失敗したこと、自分が不熱心だったことや。ですから、ここのところが、本気で検討されなきゃならないとこだと思うんです。 これは、この御理解の真意は、本当に、「一切がおかげ、一切がおかげであると悟らして頂く」と言うことは、本当におかげの中に、おかげの実感の中に浸らして頂くと言う、信心さして頂く者の、私は、「最高の境地」だと思うのですけれどもね。
%V今も申しますように、みすみす自分の不熱心、間違いなく自分の御無礼、不行届き。まあ、それもやっぱり神ながら、やっぱ、あれもおかげと言う頂き方は、私は、「あまりもの信心だ」と、こう思うのです。私は、「ほんなこつじゃなか」と思います。その辺が分からして頂くようになったら、たいしたことですけれどね。
%Vそこで、私は思うのですけれども。私共、例えば、一日なら一日を振り返ってみても、なるほど、ここが不行届きであった。あそこが御無礼であったと、こう思うことがある。けども、まあ、それもやっぱり神ながらのことであったか、やっぱりあれも、おかげに違いないと言うような、甘い頂き方でなくて。
%Vそこに、「お粗末であった、御無礼であった」と言うところがです、本気で詫びられる。心から詫びられる。又、そこのところが、本気で改まられる。その改まっていく信心の過程、又は、お詫びをさしてもらう、「そのお詫びのしるしに」と言う、そのお詫び。
%V%1今、ここ十日ばかりでしょうか。久富先生がタバコも飲みよった、お酒も頂かしてもらいよったけれども。あることから、「お酒も断った、タバコも止めた」と、昨夜、言うておられましたが。それは例えば、自分のお粗末であった。御無礼であった。こんなことではいけないと気付かれたところにです。そのお詫びが叶うまで、言うならば、好きな酒も断たしてもらおう。好きなタバコも止めさしてもらおうと、「こう」言うのである。
%V%1そして、そのお詫びがです叶うた。これで神様のお許しが頂けたと言う、言わば、すっきりするもの。好きなお酒が頂けれる時が来る。好きなタバコも頂けれる時が来る。その時が初めて、私は、「あれもおかげであった」と言うことになってくるのである。そのことを、だから御無礼は御無礼。お粗末はお粗末として、はっきり認める。分からしてもらう。
%V%1その姿勢が出来ずしておいて、「あれもおかげじゃった。あれもやっぱ、神ながらのことじゃった」と言うことであっては、あんまり信心が、ルーズな感じが致します。どうも、「神ながら主義」と言いますかねえ。そういうような雰囲気が、椛目、合楽を通して強い。
%1だから実際は、素晴らしいことなんです。それはおかげと。その代わりに、そこには、これもおかげであると言うことのものが頂けてこそ、値打ちがある。あれもおかげであった。これも現在自分が、難儀をしておる。「これも」と言うことは現実なんだ。その現実の、その問題を、しっかり信心でふんまえてからのあれもである。
%V%1どうして、こげんな難儀せんならんだろうかと。これがおかげにならずしてから、あれもおかげであったと言ったようなことは、これは許されるはずはない。これもおかげであると、それをおかげとして、受けさしてもらえれる信心。今日は、そこんところを、「あれも」と言うところだけに絞って、皆さんに聞いてもらったんですけどもね。
%V%1そこんところが、いい加減になされたんではです。「これもおかげ」と言う、本当の信心は頂けないと思う。まあ、あれもおかげがの。これもおかげがの。もう、なにもかにもおかげおかげで、なにもかにも有難い有難いで、いきゃよかがのではいかんのです。 お粗末と気付かしてもらったところを、これではいけんと思うところをです。
%V%1改まった上にも改まらして頂いて、そのお詫びのしるしに、なおかつ、お酒も止めます。タバコも止めます。そこに平身低頭、「詫びておる者の信心の姿」と言うのがあると思うのです。
%V%1だからこそ、それが、例えば、ひと月ならひと月、そういう修行をなされた時です。もう、改まった姿としてお詫びの叶うた、晴れ晴れとした心でおれれる。おかげが受けられて、初めて、「あれもやっぱりおかげじゃった」と言うことになってくるのです。本当の信者を目指さなければ、本当のおかげが受けられない。
昨日の朝、皆さんに申しましたですね、「方向」と言うことを申しました。いつも私は、そのことを、「焦点を間違えるな」と言う風に申しますけど。昨日は、私は、「方向」と言うことを申しました。おかげが受けられん受けられんと、いつまでも難儀が続くと言わずにです。方向を変えなければ、おかげになるはずは絶対ないのですよ。
自分が、おかげの受けられない方向を向いとってから。久留米なら、久留米の方に向いとってから。いつまで経っても、久留米の方に向いとってから、日田にどうして行けるじゃろうか。「日田の方は、日田の方は」と言うておったって、日田に到着するはずがないじゃないですか。
実際、自分がおかげが受けられない。こういうことじゃいけん。そしたら本当に、そこにまわれ右なら、まわれ右しなきゃいかんでしょう。いわゆる、方向を変えなければ、自分の願っておるおかげのことにはなっていかんのです。方向も変えずに、「ただ、十年、二十年信心、ただおすがりして、お願いしておる」と言うような信心ではいけんのです。
%V気付いたら気付いたところからです。お詫びの信心が始まって、改まりの信心が始まって、そして、初めて、永年の間、この方向も変えずにです。さまざまな難儀も味わうた。修行もさしてもろうた。 初めて、ここに開眼のおかげを頂いて、まわれ右のすっきりとした、方向を変えることがでけた時に。その過去一切が生きてくるのであり、過去の一切が、「あれもおかげであった」と言うことになるのです。
この辺のところを、いつもそのいいかげんにする。私は、昨日、一昨日、久留米の古賀さんに対して申しましたことをです。これは自分自身の事として、改めて、自分に頂いているのですけれども。 丁度、二十日の菊栄会、もちろん、朝、参って見えておりますが、菊栄会には見えてなかった。それが、久留米でなんか知名士の会がありました。
%2その中に自分も、そのグループの中に入っておった。そちらの方へ出席して、お神酒が入ったりしとりましたもんですから、とうとう、あの晩は、菊栄会の方を御無礼致しました。「もう本当に相済まんことでした」と言うて、あくる朝来てから、お詫びされますから、その本当に相済みませんでしたをですね。古賀さん、「本当に言うて下さい」と、私が申しました。本当に言うてもらわなきゃ、神様に取次ができません。
%2只、それは、言葉の綾である、昨日は、本当に御無礼致しました。その本当に、御無礼しましたをです。本当に言うてもらわなきゃ、「御無礼致しました」と言うて、神様にお取次できません。それを「本当に」言うてもらいたい。
%2何遍も繰り返しよるうちにですね。私自身のことを思うてみた。私自身も、神様に、毎日毎日、「相済みません、相済みません、ばっかり」言いよるがです。大坪総一郎、お前も、「その相済みませんを、本当に」言わなきゃつまらん。本当に、相済みませんがでる時にはです。それがおかげになる。
%2ただ口ばっかりで、「相済みません相済みません、信心もできませんのに、こんなおかげ頂いてばあっかり」言うとったんじゃ、いかんじゃないかと。古賀さんに、そういうお取次をさして頂きながらです。古賀さんのことじゃあない。自分自身のこととして、その相済みませんをですねえ。本気で言えれる、私にならなければならないと言ったようなことを、感じたんですけれども。
%2本当に、私は、「相済みません」が言えれるところに、やはり、どちらが信心かと言うことを、取り違えるはずがない。それが、口だけであるから、いつも取り違えておる。こうすることが、本当の事と分かっておっても、本当の事がようでけんことになるのでございます。
あれもおかげであった。それは、さまざまな、なるほどあれも、即おかげと感じられることもございますけれども。それが、自分の不調法とか、お粗末とか、御無礼とか、不行届きと言ったような失敗と言ったようなことがです。そのまゝ、あれも考えてみると、神様の御都合でございました。こういうようなことでは、いつまで経っても、これもおかげという実感はない、生まれてこない。
そこで私は、その自分の、いわゆる、実意丁寧神信心をはずしておる。横着である。我がままである。そこんところをです。本気で、お詫びさしてもらい。本気で、その久富先生じゃないけれども、お詫びのしるしにと言ったような信心がなされて、許されておる。そういう気持ちの上に、立たして頂いた時に初めてです。その過去のことが、たとえ、それがどのような失敗であっても、本当の意味合いに於て許されるであろう。
そこに修行がなされる時にです。「おかげで修行がでけました」と言う。「あれもおかげであった」と言うことになってくるのですから。あれもおかげであった、これもおかげであったと、本当に言えれる。いわゆる、おかげの世界に住まわして頂く。そういう信心を持って、本当の信者だと申し上げられるのじゃないかと思うんですね。どうぞ。